フィンランドの教育から我が国の教育を見てみると①  テストでゆがむ日本の教育事情

フ ィンランドの教科書を使って授業を始めた関係で、最近フィンランドの教育事情を紹介した本をいくつか読んでいます。といっても、たくさんの方が紹介してくれているわけではありません。フィンランドの教科書、フィンランドメソッドを紹介しくてださった北川達也先生と、福田誠二先生の本が中心です。

 福田先生の『フィンランドはもう「学力」の先を言っている』という本を読み始めたのですが、「はじめに」から気になることばかりが出てきます。

*人生に必要な勉強

16歳まで、他人と比べるテストはなく、点数競争はしない。勉強は学校の授業だけ。義務教育の授業時数は、世界でほぼ最低。宿題は少しあるが、学習塾はなし。取り立てて、受験勉強もしない。国際学力調査によると、そんな国が、必死で勉強する東アジア諸国と肩を並べて世界トップクラスだという。

 それが、フィンランドなのです。続けて、福田先生は次のように述べています。

テストのための勉強は、テストが終わると忘れてしまう。入試のための勉強では、入試が終わると目標を失って遊んでしまう。というのも、テストのための勉強だと、教師はテストに出そうなところを教え、生徒はテストで点になるものだけを覚えようとする。人生に向けた学びにならないからだ。

 こんなことは、ずいぶん前からだれもが認識していることであるはず。でも、この現状が全く変わることなく、日本の学校ではごく普通にテストが、テストのための授業が行われています。とにかく、日本人は、テストが好き、点数化して客観的な評価をすることが好きなようです。

 小学校に入学した子供たちの、勉強に関する一番の目標は「テストで100点」をとることといえるでしょう。テストをして花丸をたくさんもらい、100点の赤い文字をもらった時ほど、低学年の子供たちにとってうれしく誇らしい気持ちになることはありません。

 しかし、ここから子供たちの本当の学びは消えていきます。

 なぜか。子供たちは、授業の内容をしっかりと覚えることに専念します。親も教師も「学校に上がったら、先生の言うことをしっかり聞いて、よく覚えるんだよ。」と子供たちに言い聞かせます。したがって、たくさんの知識を覚えようと一生懸命になります。基本的にこのことが中学校まで続きます。つまり、日本の子供たちは、テストのために勉強をさせられているという状況になるのです。

 それでも、多くの人たちはこの状況は決して嫌いではなかったのではないでしょうか。わたしも、中学生のころ、あまり勉強は好きではなかったけれども、テストは好きでした。それほど悪い点数をとることもなく、親の機嫌を損ねないほどの成績はとっていましたから。お陰で、大学を出て教員にもなれたわけです。

 しかし、教員生活の中で、指導主事として他の人の授業を見る機会が増えるにつれ、そして管理職になって、自校の先生方の授業の様子を見るにつけ、先生方は一生懸命授業をしようとしているのに、子供たちの多くはその授業にシンクロしていない。一部の子供は熱心に参加している。しかし、中位群から下の子供たちはほとんどがお客様状態。このあたりから、我が国の授業がとても怪しく感じられるようになりました。

 その、一つの窓が「テスト」。

 小学校ではほとんどの学校が1年生から、業者が作成した市販テストを購入します。そのテストは、業者の努力もあって、教科書の内容に準拠していることはもちろん、「関心・意欲・態度」「思考・判断」「表現」「知識・理解」という通知表や学習指導要領につながる観点別の問題を設定しています。そして、そのテストの処理に合わせて作られた処理用のパソコンソフトをおまけとしてつけてくれます。したがって、教師はテストをしたら、その観点別に子供たちの点数を入力すれば、自動的に通知表や要録の評点が出る仕組みになっているのです。

 問題の一つに、それぞれの問題がほんとにその観点を評価できる問題内容になっているかということがあります。よくよく見ていていくと、どうしても〇✖により、点数化するために、ほとんど多くの問題が結局「知識・理解」中心の問題になっているのです。つまり、どれだけ多くのことをその子が覚えているか、で点数をつける昔ながらのテストと何ら変わりません。

 次に、教師側の問題があります。とにかく今の先生方が「多忙感」の波に飲み込まれそうになっていることは事実です。その忙しい合間を縫ってテストの〇つけをします。

そうすると、子供たちがどのよう考えでその答えにたどりついたかを見取ることなどできません。勢い、模範解答に沿って〇✖をつけていきます。

 算数で長方形の面積を求める授業をして、当然そのあとにテストを行います。その中に「縦25センチ、横35センチの長方形の面積を求めなさい」という問題がありました。Aさんは、「式 25×35」を立てます。しかし、途中の筆算を間違えて、答えを775平方センチと書いてしまいました。すると、この問題、Aさんは完全な✖になってしまいます。「それって、当然でしょ」と思う方もいるかと思いますが、ここに大きな問題があります。なぜなら、この間違いのためにAさんは「三角形の面積の求め方」に関する成績は✖になってしまいます。しかし、ここでAさんがミスったのは「2桁の掛け算」であって、「三角形の面積の求め方」はわかっていたのです。

 これはある意味極端な一例にすぎませんが、忙しい先生たちは、市販テストに頼るあまり、子供たちがそれぞれの単元で、何をどのように学び、何をどこまで身に着けているかを、しっかりと把握できていないままに、テストで点数をつけているということになるのです。

 そして、次のよう現象も起きています。テストをまとめて買ってありますから、学期末授業が詰まってくると、テストが残ってしまう心配が出てきます。そこで、あわてて授業を進めて、テストに必要なことだけを教えて「はいテスト!」というような笑えない状況も、多くの教室で起こっているのです。

 中学校のことは、これまでにも書いてきましたが、次回以降にまた触れる機会があると思います。 

 

中学校の課題の出し方、これでいいの?

  昨年の三月に公立学校の教員を定年退職し、その後、前橋市内で学習塾を始めました。私の塾は、どちらかという小と学生が中心なのですが、数名の中学三年生が通ってきています。
  実は、その中学生たちは、いわゆる「勉強ができる」生徒たちではありません。二年生までは、ほとんど勉強をすることなく学校生活を送っていたようです。しかし、三年生になり、さすがに「高校に行きたい!なんとかしなくちゃ!」という思いをもつようになり、私のところを頼ってきてくれるようになりました。
  学習を始めてみると、確かに小学校高学年から中学校一年段階の学習でつまずきが見られます。二年生までのテスト結果や答案用紙を見せてもらうと、ほとんど点数を取れていません。そこで、一学期の期末テスト前には、本当に基礎的な内容を確実に身に付けてテストに臨ませようと作戦を立てました。
  ところが、その作戦は完全に失敗に終わります。
  生徒たちが、テスト一週間前に、山のような課題(ワークブックや学習プリント)を抱えて塾にやって来たのです。そして、「テストが終わるまでにこれやって行かないと、点数引かれちゃうんです!」というのです。そして、それは一年生からずっとそうだったとのこと。
  結局、その課題を塾でやることになりました。ところが、始めて、びっくりです。彼らは、ほとんどの問題について答えを写しています。私がたしなめて、一緒にやろうとすると、「時間がありません!」「これまでもずっとこうだったから、大丈夫。」というのです。『何がだいじょうぶなの?』と思いつつも、確かに課題の量の多さと、目の前の生徒たちの学力を考えたら、じっくり考えて答えを出している間などとてもありません。
  そして、夏休みが終わりに近付いたある日。やはり彼らは、夏休みの課題の「答え写し」を必死にやっています。「これ、仕上げて出さないと、減点されちゃう。でも減点されるほど、点数ないんだよね。」と、答えを写す作業に慣れっこの本人たちはあっけらかんとしています。
  しかし、それを見ている私としては、大変複雑な気持ちになります。中学校の先生方は、全員に平等に課題を出しているのでしょう。しかし、この「平等」は正しい「平等」なのでしょうか。現在の受験対応を迫られている中学校ならば、なおさら、一人一人の生徒の受験学力は把握しているはずです。それならば、その生徒の実態に応じた課題の出し方があってしかるべきなのではないでしょうか。全員に違う課題を用意すべきだなどと言うつもりはありません。しかし、その生徒が自分自身の学力実態に応じて、課題を選択して、答えを自分で探る本来の学習スタイルを保証するなどの工夫はいくらでもあるように思うのですが。
  いずれにしても、課題に追われて、学ぶ楽しさを味わうことなく、課題の山に立ち向かわされている生徒たちを見ていて、戦後ずっと続いている受験対策に迫られる中学校教育がかかえる大きな課題をあらためて感じます。そして、そのような中で、「どうせさ、この課題出しても、先生はさ、はんこ押して終わりなんだよね」とこともなげに言いつつ、課題をひたすら写す生徒たちを見て、『こんなつらいつまらないことにも、一生懸命取り組もうとする前向きな姿勢だ!』と評価すべきなのか、『完全にこのような作業を押しつけられることを受け入れてしまうほどに感覚が麻痺してしまっている!』と嘆くべきなのか、日々悩んでいます。

文章力

 夏休みになり、感想文のサマースクールが続いています。一番人数の多かった低学年のコースと中学年の予備日のコースは終了し、目下高学年が進行中で、お盆明けに中学年の子供たちの中学年の本コースの子供たちの授業が残っています。

 この感想文の指導、特に低学年の指導を通して、文章を読んだり書いたりする基本的な「力」について、あらためて「国語科の授業」について考えさせられています。

 低学年の子供たちですから、文章を書く力はそれほど期待していたわけではありません。とはいっても、2年生の子供たちには、ある程度の期待がありました。ところが、その子たちの文章力たるや、信じられないくらいに身に付いていないのです。1年生は、1学期が終わったこの段階であれば、3文節程度の1文をしっかり書けて、その文を3文程度つなげて書けたらよしとすべきかと思います。しかし、2年生であれば、1文1文を意識しつつ、意味のまとまりのある段落の構成がある程度できるくらいには文章を書けるはずです。しかし、来ていた子供たちの実態は・・・・・・

*一つの文を作る意識がほとんどできていません。そのために、いくつもの要素をただ書き連ねてしまいます。

*文の途中に、ほとんど「読点」をつけることができません。言葉の句切りの意識が育っていません。

*文と文とのつながり(接続)に関する意識がほとんど育っていません。

*自分が考えていることを、音声にしろ文字にしろ、表現する習慣化がほとんど図られていないような印象です。

*文章の中の文字情報を、しっかりと受け止めて理解する能力がどこまで育っているのか、はなはだ疑問です。そもそも、自分の中に受け入れようとする意識が育っているのか疑問に思えます。

 これらは、国語科として身に付けるべき基本的な能力の一部であるはずです。それらが、きちんと身に付いてないということは、とても気がかりです。

 しかし、考えてみると、小学校の国語教育の現状として受け入れざるを得ないのかもしれません。どのクラスも国語教育の専門家が授業をしているわけではありませんし(国語の免許保有者の割合は、小学校では極端に少なく、全教師の1割もいないのではないでしょうか)、国語の免許を持っているといっても、きちんとした国語科の授業論を身に付けている人は少ないのかもしれません。したがって、日々の授業の中でどのような授業を行って、どのような力をつけていかなければならないか、ということが教師の中で認知されないままに授業が進んでいる可能性があります。

 結局は、学校現場の国語の授業の問題に帰結してしまうようです。

 もっともっと、国語教育、国語科の授業づくりについて議論したいのですが。

国語のテスト

 塾に来ている、某小学校1年生のYちゃんが『おおきな かぶ』のテストを持ち帰り、「二重丸じゃなかった」と悔しそうでした。その学校の1年生はテストに点数をつけるのではなく、全問正解だと「二重丸」、どこか間違うと「一重丸」のようなのです。

 そこで、そのテストを見せてもらいました。それを見て、ちょっと一言、言いたくなったので、一言。「この学校の国語教育の理解度は大丈夫?」

 Yちゃんが×をつけられた問題は、次のようなものでした。(この学校は、昔からテストは自作で、市販のテストは使っていません。これはとても素晴らしいと思っています。)

上段に本文、下段に問題が配置されています。問題の問題は「2 どんなかぶが できましたか。」というもの。この問題文の横に、本文の「あまい あまい、おおきな おおきな」を抜き出させるためのますがあります。おそらく、これまでのテストのイメージを持っている人が見たら、ごく普通に思われるでしょう。

さて、Yちゃんはどのように回答したかというと、「あまい おおきい」と書きました。本文は「あまい あまい、おおきな おおきな」であり、ますもそれに合わせて設定されているのだから、その通り書かなければ×になる、と考える方は多いことでしょう。しかし、それでいいのでしょうか。そもそも、小学校の国語の問題で、本文をそっくり抜き出させるような問題を設定すること自体、疑問なのですが、それは少し横道にそれるのでおいておきます。

Yちゃんは、このお話を読んで、おじいさんがまいたかぶが、甘く大きく育ったことをとても喜んでいたのです。だから「どんなかぶ?」と聞かれて、すぐに「あまい、おおきい」と答えたのです。これは、まさにYちゃんの「解釈」です。ここが大切なところなのです。PISA型読解力は「読むことの三つの側面」として「情報へアクセス・取り出し」「統合・解釈」「熟考・評価」を掲げています。この中の「情報の取り出し」は我が国の国語教育では伝統的にしっかり取り組んできました。しかし、「解釈」や「熟考・評価」はどちらかといえばおろそかにされてきたのです。したがって、Yちゃんが答えたような回答を期待したテスト問題を作れないということは、本当に今の国語教育で大事なことが何かを十分に理解でしてないのではないか、ということになるです。ますがあったら、そのますに合うように埋めなさい!というような受験学力・受験テクニックは小学校1年生に何の意味もありません。それよりも、自分の考えを書けたことを褒めてあげたら、Yちゃんはきっと国語大好きな子に育っていくはずなのです。

ギャップ

塾が始まって以来お休みしていた「授業に学ぶ会」が、今日、久しぶりに開かれました。これまでは、現場の先生方の要望もあり、月に一度、金曜日に行っていたのですが、金曜日は私の塾での授業があることから、今回から月に一度の土曜日に開催することとなりました。

今日は長野県の木島平中学校の社会科の授業を見せていただき、その授業からたくさんのことを学びました。今日、このブログに書きたいのは、その木島平中学校の社会の授業の様子と、群馬県の一般的な小・中学校の授業の様子のギャップなのです。

きっと、この『塾長ブログ』を学校の先生方が読んだら、「また、岡野が教員批判をしている!学校の現場がどれだけ大変かわかっていない!」ときっとお怒りになることでしょう。ですが、はじめに断っておきますが、生徒指導、校務分掌に関わる仕事、中学校では部活指導、等々の大変さの中で、先生方が精一杯やってらっしゃることは、十分に承知しています。その上で、「では、授業に関する教材研究や指導に関する研究をおろそかにしていいのですか?」「教師の一番の仕事は授業を作ることであり、生徒に学ぶ楽しさと確かな学力を身に付けることではないですか?」と問いたいのです。最近会った中学校の若手の先生と話をする中で、「職員室で教材研究する先生はほとんどいません」ということを聞いて、愕然としました。放課後になると、部活指導を遅くまで行い、終わってから会議をやるような状況で、とても教材研究なんかしている暇がない、ということも、分かってはいるのですが。

前置きが長くなりましたので、本論は簡潔に。

見せてもらったのは木島平中学校の1年生の地理の授業でした。およそ50分の授業の中での教師の発話はおそらくトータル10分もなかったと思います。ほとんどの時間、グループで課題追求をしているか、学級全体で課題についての議論をしているのです。生徒は、自分の発言の前に「いい?」と他の生徒に聞きます。すると、他の生徒は「いいよ。」と答えます。これは、「これから自分が意見を述べていいか」と聞いているものであり、それに対して「いいよ。自分たちはしっかり君の意見に耳を傾けるよ」という返事です。そして、実際に、発言する生徒たちは、教師になんか向かって意見を言いません。学級の友達に自然に話しかけています。そして、全部の生徒が(もちろん教師も)真剣にその意見を聴き取って、その意見につながり合って自分たちの考えを重ねていきます。まさに、『聴き合い』が実践されているのです。さらに、教師は、指導的な、何か1つの決まり切った答えを教え込むという行為は行っていないのです。

塾に来ている中学生や、知り合いの中学校の先生方から聞く、県内の中学校の授業のように、ワークと学習プリントで答え探しをして、わかる生徒が答えて、教師が黒板にその答えを書き、ほとんど生徒はそれを写して終わっている風景とは全く異なります。この風景のギャップです!

実は、これは、中学校だけの問題ではありません。小学校だって、ほとんどの教室で同じような状況が起こっているのです。だから、高学年になったら、多くの子供たちが各教科の学習に対する興味・関心を失っていて、手紙を書いて渡しっこしたり、ノートに漫画を書いていたり、中には居眠りをしてしまう子だっているのが現実です。

なお、長野県の木島平村は、当時の教育長さんの方針で、もう十数年前から、小・中学校ともに学びの共同体の取り組みをしているのだそうです。したがって、生徒たちは小学校から学び合いによる授業づくりに十分慣れ親しんでいます。そして、先生方も、学び合いによる授業作りについて、熟知しているようです。

「話し合い」・・・質の問題

    学校の授業作りで、教師は、よく「話し合い」を大事にします。「アクティブラーニング」が取り沙汰され、新しい学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」という新しいキーワードが示されたこともあり、なおさら「話し合い」が大事にされるようになりました。

  そして、この「話し合い」は、言葉のイメージからもコミュニケーション能力に直結すると考えられる方も多いことでしょう。

   さて、この「話し合い」ですが、ほとんどの教室で、とても大きな間違い(弊害と言ってもいいかもしれません)が起こっています。と、言ったら、「また、岡野が大袈裟なことを❗」と思われる方は多いことでしょう。でも、そう言わずに読んでみてください。

   先日の高学年の国語の時間のエピソードです。谷川俊太郎さんの『わるくち』という詩を読んでいる中で、A君が「この二人、この後仲直りしたと思うんだ」と言いました。それを聞いていたBちゃんが「A君は、仲直りしたと言ったけど、最後が「へーん」「ふーん」で終わっているから、それはちがうと思います。」と発言しました。よく教室で見かける風景です。だれかが発言したら、それに対して、賛成か反対かを述べます。挙手をして教師が指名することもあるでしょうし、子供同士が指名することもあります。ちなみに、学校や教室によっては、「賛成・反対・付け足し」等のハンドサイン(例えば賛成はチョキで、反対はグーのように)を決めておき、誰かが発言したら挙手をした指で自分の意思を表現します。私もかつては使ったことがあります。

 では、このどこが問題なのか!?ということになります。先ほどのBちゃんはきちんとA君に対して反対の意見を述べているのだから、それでいい、それで話し合いになっているではないか、というのが一般的なのかもしれません。

 しかし、そこが大きく違うところなのです。この3月の「授業に学ぶ会」の中で、新潟大学の一柳先生から「聴き合い」ということについてご講演をお聴きしたのですが、その一柳先生からお聞きしたことや、これまで群馬大学の濵田先生から教えていただいたこと、いくつかの本の中か学んだことを元に、述べてみます。

 先ほど例に出したBちゃんをはじめとする、多くの教室で「話し合い」を行っている子供たちは、誰かの意見を自分の中で「同じか違うか」「合っているか間違っているか」と評価をしています。そして、相違点か共通点を自分の意見として述べています。あるいは、そのこととは全く異なった意見を新たに発言しています。時には、教師の求めている答えが出るまで、幾人も意見を言わされることもあります。

 しかし、これらは「話し合い」にはなっていおらず、ただの「言い合い」に過ぎません。大事なことは、意見を言った人が、どのような考えや気持ちでその意見を持ったのかを、まずは自分の中にしっかり取り入れ、そのことを十分に理解することからスタートすることです。友達の意見をしっかりと受け止め、その上で、自分の考えを相手に伝え、相手に自分の考えや気持ちを逆にしっかりと受け止めてもらいます。それにより、双方の思考や意識が絡まり合って、より深い考えが生まれてくるでしょう。そして、相互理解がグッと深まります。

 そもそも、コミュニケーション能力にとって大事なことは、この相互に相手を理解することなのだと思います。先ほどのAくんとBちゃんの例に戻って説明しましょう。

 A君の考えを聞いたら、グループやクラスのメンバーは、『A君はどうして、そんなふうに考えたんだろう?』『そのように考えたのは、詩の中に何かヒントになることをA君は見つけたのかな?』『何かA君なりの理由があるんだろうな』と言うように、考えます。そして、もしA君が理由をしっかりと言えてなかったら

「A君、どうして、そう考えたの?」と聞いてもいいですね。あるいは、

「A君がそう考えたのは、こういう理由からなの?」と確認することも大事なことです。そして、よくわからなかったら、

「A君、君が言ったこと、よくわからなかったから、もう一度説明してくれる?」と聞き返せる教室の雰囲気もとても大切です。

「そうか、A君が言おうとしていることは、こういうことでいいのかな?」と、A君の思考を自分なりに解釈することで、自分自身の思考が大きく深化します。こうなると、グループやクラスの子供たちは、A君と同じ視線で問題と向き合うことができます。

このような、言葉が子供たちから出てきたら、素敵な「話し合い(聴き合い)」になると思うのです。

 

 

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先日、エチオピアの先生方への講義を無事に終えました。内容は、我が国の義務教育学校における指導と評価の現状・課題についての話となりました。今回の講義の原稿を作っている際、塾に来始めた中学生(1年生と3年生)の話を聞いていて、あらためて我が国の小・中学校の授業づくりに関する課題を実感しました。

実は、我が国の学習指導要領を見る限り、とても進んだ理念に基づいて作られています。先日参加したイエナプランの勉強会でも、イエナの理念に劣らないくらい学習指導要領が追求していることはすばらしい、という意見が出ていました。確かに私もそう思います。平成元年度に出された学習指導要領のあたりから、それまでの知識優先の学力観から大きくハンドルを切って、学習意欲や思考力・判断力・表現力といった、今世界中で求められている重要な資質・能力(キーコンピテンシーといいます)を視野に入れて学力観を組み立てるようになったのです。

ところが、ところが、学校現場はほとんど変わらずに来ています。結局高校入試が変わらないから、という大きな壁があるからなのですが、小学校にしても最終的にはテストの点数をつけること(テストで高得点をとること)が目的の授業になってしまっていることが多いのです。だから、子供たちは「覚えること」、教師は「教え込むこと」にばかり意識がいってしまっているのが現状です。

エチオピアの先生方は、私の講義の前日、茨城県牛久市の中学校の視察に行って来たのだそうです。それを聞いて、ほっとしました。なぜかというと、牛久市は市を挙げて「協働的な学び」に取り組み、すべての学校が「学び合い」の授業をしています。その様子を見てきたのだそうです-なぜ、牛久市へ行ったかというと、JICAの関係者の中に協働的な学びに関して研究されている方がいて、その方が推薦されたとのことでした-。こんな言い方は失礼かもしれませんが、群馬県の中学校の視察ではなくてよかった、と思ったのは確かです。